§27-5 闘争のための道具(認識/悟性/理性)

各イデアにとっての闘争のための道具として、認識が誕生した。

植物界や、運行や発生や成長といった植物的な動物現象では、無機物界と同様、闘争を呼び起こすのは刺戟である。
しかし、動物が多様化し、相互に邪魔し合うようになると、単なる刺戟によっては十分な食糧を得られなくなった。
そこで刺戟ではなく動機に基づく運動と、それを可能とする認識能力が必要となった。

動物において飢餓衝動が消化器官として現象したように、認識は脳髄や神経節といった器官として現われた。
認識という道具が現われるとともに、表象としての世界、すなわち客観と主観、時間、空間、数多性、因果性に支配された世界が、動物の前にいっきに成立した。
そうはいっても、動物がそなえているのは単に直観的な表象に過ぎず、まだ概念や反省をそなえているわけではない。
この認識能力が、悟性である。

人間の場合、動物において生じた悟性認識だけではもはや十分とはいえない。
悟性は感覚からデータの提供を受けるが、それだけではただ現在に縛りつけられた単なる直観しか生まれてはこないからである。
未来と過去の展望を可能にするには、直観的認識に対して概念の形成能力と反省能力がつけ加わらなければならなかった。
この認識能力が理性である。
(しかし、すべてに取って代わるはずの熟慮が、逆に不確実性や誤謬の可能性も生むこととなった。これは無機界における確実性と対照的である。)

このように認識の起源をただせば、もともとは意志そのものから誕生しており、認識が意志に奉仕し意志の目的を実現するためのものであることがわかる。

ごく少数の人間だけが認識を意志への奉仕から解放することができる。これは第三巻のテーマである。

また、その中でもさらに少数の人間だけが、意志の否定へ到達できる。これは第四巻のテーマである。

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