エゴイズムとは、自分のためなら他の全てを犠牲にしても良いという考えで、自然のままの人間の姿である。このことは、次の二つのことから説明がつく。
まず、意志にとって認識の全ては表象であり、意志の本質は自分の中にしか感じられないこと。
次に、自分が消えれば、あらゆる認識主観を失ってしまうことである。
エゴによる不和は、苦悩のうちでも大きなものである。我々はどのようにこの苦悩に対処すべきだろうか?
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エゴイズムとは、自分のためなら他の全てを犠牲にしても良いという考えで、自然のままの人間の姿である。このことは、次の二つのことから説明がつく。
まず、意志にとって認識の全ては表象であり、意志の本質は自分の中にしか感じられないこと。
次に、自分が消えれば、あらゆる認識主観を失ってしまうことである。
エゴによる不和は、苦悩のうちでも大きなものである。我々はどのようにこの苦悩に対処すべきだろうか?
ここからは、意志の肯定について論じる。
人間が自己保存に成功して、次に行う努力は種族の繁栄である。性欲を満たすことは最も積極的な意志の肯定である。
ヘシオドスやパルミデネスは、「エロスこそは万物の根本」であると言った。性欲には意志が最も強力に働くからである。
死は既に生が始まるときに決まっているから、意志を損なうものではない。意志は個体ではなく種族を保存する。意志は種族として、イデアとして、無規定の時間の中に現象する。
キリスト教には、根拠の原理から解放された箇所がある。それは原罪であり、アダムが性欲を満足させたことである。これは、生殖という種族の絆により、個体に分散してしまった人間が統一を回復するというイデアを教義にしたと言える。
各個体は意志の肯定としてアダムと同一であり、意志の否定としてキリストと同一である。これが救世主による救済という教義である。
世界は偶然と誤謬に支配されている。
思考の国は不条理に支配されている。
芸術の国は凡庸さに支配されている。卓越したものは同世代の恨みを免れたずっと後で再発掘され、まるで地球外から来た隕石のように珍重される。
一生は苦難や災難に支配されている。自殺する人もいるくらいである。短さが生の最も善いところではないだろうか。
ダンテの神曲の地獄篇は、どの世界から材料をとってきたのだろうか?この世界である。どんな楽天家でも、外科手術室、監獄、拷問室、奴隷小屋、戦場、処刑場と連れ回せば、世の中について悟るだろう。ダンテの楽園には祖先や恋人や聖者ばかりで、純粋な歓喜が描かれていないのは材料が無かったためである。
人間はこうした苦悩に際して、自分に立ち帰るしかない。楽天主義は何も考えていない連中の、不条理な、放埓な考えである。
人生の活動には三つの極端がある。
しかし、人はこれらのどれにもとどまることが出来ず、いや実際はどれかに近づくことすら滅多になく、3つの間をぐらつきながら転々とすることで小さな対象をがつがつと追い求める生を送っているのだ。
人は喜劇役者のように、欲望に突き動かされるままに、様々な苦労に満たされているが、苦労することには退屈を排除する力は無い。すると人間の精神は、迷信を生み出すようになった。そして、迷信と空想の中で精神力を浪費することで、退屈を避けるのである。
迷信は、生活のしやすい、インド、ギリシャ、ローマ、スペインなどの地域に多くみられる。
一生のほとんどを供え物、礼拝、願掛け、巡礼、聖像の飾りつけなどに空費していると、人生のいかなる幸運もこれら御本尊からの反応だと受け取られ、ついには錯覚の魅力によって、こういうものと交渉しているほうが現実のものと交渉するより面白くなってくる。救いと加護を求めているはずなのに、貴重な時間や精力を無駄に使ってしまい、救いはますます遠ざかってしまう。しかし、そのような人は、退屈の気晴らしが出来るという実に有難い御利益を賜っているのである。
持続的な幸福はあり得ない。なぜかと言うと、幸福とは「苦痛が無いこと」だからである。
だから、幸福や目標を達成しても、享楽によっても、単に苦悩や願望から解放されただけである。むしろそこには退屈がやってくるのだ。
苦痛が積極的なのに対し、幸福は消極的である。だからこそ長続きする幸せなどというものはあり得ない。絶え間なく苦痛が生まれることは人生の本質だからである。
積極的な幸福が存在しないことは、どんな詩も劇も、幸福を得ようとして格闘し努力し戦闘するさまを描くだけで、永続的で円満な幸福それ自体を描くものではないことからもわかる。主人公が幸福を探り当てるや否や、幕を下ろしてしまうしか、文学にできることは無いのである。また永続的な幸福を描こうとした芸術、例えば田園詩、牧歌は、退屈である。
そもそも宇宙は空虚であり、全ては最終目標も無ければ終点も無い努力である。
非常な歓喜を覚える人は激しい苦痛も味わわなければならない。これは、一度に受け取れる歓喜や苦痛の容量が、その人の精神的感受性により一定だからである。
非常な歓喜や苦痛は、現在的なものではなく、未来の先取りによる。言い換えれば、それは誤謬や妄想である。
我々は、事物の関連を明瞭に見渡して理性的に洞察し、辛抱強く自制しなければならない。しかし実際には苦い良薬には目を防いでしまうほど、我々は愚かである。
絶え間無い苦痛が人間の本質だから、逆に何をしても苦痛の総量は変わらないということを認識すれば、心は慰められる。苦痛は偶然に左右されない必然だ。
苦悩を追い払うことは出来ない。苦悩は絶えず形を変えてやってくる。性衝動、愛、嫉妬、羨望、憎悪、不安、名誉心、金銭欲、病気…。
しかし、我々が苦痛に対してイライラするのは、それを偶然だとか、自分の運が悪いせいだとか思うことによるのである。
苦痛は必然であり、あらゆる形をとって絶えずやって来ると分かっていれば、我慢が出来る。死や老いに我慢がならなくて始終イライラしている人がいないのも、それが避けようのないものだからである。
普通の人は苦痛を外的原因によるものと考え、いつも苦痛の言い逃れを見つけようとしている。これはあたかも、自由の身でありながら、奴隷に戻ろうとするような行為である。
現在が手をすり抜けて過去になっていくことは、死への休むことの無い移行だ。
歩行は絶え間無い転倒の阻止である。活気は絶え間無い退屈の延期である。食事も睡眠も暖をとることも、死の延期である。
この不断の生への努力によって苦痛が生まれる。
人間は苦痛と退屈の間を往復する振り子運動だ。さらに生殖の義務と、外敵とが人間を脅かす。
そして、最期には必ず死との闘いに敗北する。人生は難破を目指して、岩礁と渦巻きに満ちた海を航海することである。
市民的名誉とは、平和的な社会に仲間入りするための名誉で、一度でも蛮行を起こせば失われてしまう。
誹謗や怪文書によっても失われてしまうから、法律により取り締まられている。誠実と信用が大事である。と書くとつまらないが、そもそも名誉とはそれを担う人が例外的人物でないことを表すのである。老年者の名誉も、長い間の市民的名誉の維持に信用がある。
職務上名誉とは、ある職務を司る人が、そのためのあらゆる能力をそなえ、任務を果たしているという評判である。違反者を厳しく告発する自浄作用もこの名誉を支えるのに不可欠である。官吏、医者、弁護士、教員、大卒者、軍人がそれぞれの職務上名誉を担っている。
最後の性生活上名誉は、女性の名誉と男性の名誉とに分かれている。
これは明白で、未婚の女性に対してはまだ男性に身を許していないという評判、既婚の女性に対しては1人の男性にしか身を許していないという評判である。この名誉も自浄作用で守られているが、結婚制度を維持しようという力が違反者を厳しく糾弾するのである。何故なら結婚という割に合わない取引は、信用のみに支えられているからである。
君主だけは、国益の定めた相手としか結婚出来ないから、可哀想だということで妾の制度が維持されてきたが、妾のほうも愛し合っても結婚出来ずに不幸であり、例外として黙認されている。
さて、男性の性生活上名誉は女性に対する労働組合的なものに過ぎず、姦通を厳しく罰しようというルールであり、これが出来なければ男性社会から不名誉を着せられる、というだけである。しかも情夫は処罰されないものなので、消極的な起源をもつ名誉だとわかる。
誇りには2種類ある。
自分の人柄(1)に対する誇りは持つべきである。自らの長所を忘れると、低レベルな人間と交わって、釈迦に説法の説教をされることになるだろう。何故ならあなたの内面の長所は彼らに見えないので、すぐ忘れられてしまうだろうから。
これに反し、民族の誇りは最も安っぽく、いたずらに持つべきではない。これは、自らの内面になに一つ誇りを持てない憐れな輩が最後に逃げ込む場所である。