人間にはエゴがあり、自分の個体を最優先にする。だから、基本的には愛は他人の苦悩を自分と同一視することで可能となり、共苦することである。
だから、エロスは自己愛であり、真の愛はアガペーである。
現実は、これらの混合である。
例えば真の友情でさえ、友の側にいることで満足する気分は利己心であり、友のために自己犠牲をいとわないところに共苦がある。
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人間にはエゴがあり、自分の個体を最優先にする。だから、基本的には愛は他人の苦悩を自分と同一視することで可能となり、共苦することである。
だから、エロスは自己愛であり、真の愛はアガペーである。
現実は、これらの混合である。
例えば真の友情でさえ、友の側にいることで満足する気分は利己心であり、友のために自己犠牲をいとわないところに共苦がある。
世界征服者が、並外れた悪心と、並外れた精神力とを組み合わせて、世界征服を成し遂げ、万民に苦悩を与えたとする。すると、全ての民衆が、彼等が受けた総和に等しい苦痛が、その悪人に降りかかれと望むようになる。この感情の正体は実はエゴイズム(§61 エゴ)の一種である。
これに対し、反逆者がこうした独裁者を暗殺し、自らは断頭台に消えるのは、無私の心である。彼は、未来の大悪人たちを、威嚇しようとして殉じるのだ。しかし、このような英雄も、時間という幻影(§3 根拠の原理 – 時間の原理)に惑わされ、永遠の正義(§63-1 永遠の正義、永遠の罪)を見誤っている。
今西洋人は、インドの民衆を啓蒙しているが、決してキリスト教がインドに根付くことは無いだろう。
むしろ近い将来、インドの哲学が逆流し、西洋に強い影響を残すだろう。
ここまで論じた正義は、実は時間的な正義に過ぎない。未来のための仕組みだからである。ここでは、永遠の正義について述べよう。
実は、永遠の正義は既に実現されている。個体化の原理に囚われた人間には、悪行と被害が別個のものに見えるだろう。しかし、意志を満足させる不正行為こそか、自分の生の苦痛の一切を生み出しているのである。害と悪を、ただ一つの生きんとする意志の異なった二面に過ぎないことを認識出来るものは稀である。だから彼は、害をなすことによって、個体としての自分の苦しみから逃れようと試みることがしばしばあるのだ。
このように、個体化の原理に完全によりかかって生きるのは、荒れ狂った海上で、一艘の小舟に命を託すようなものだ。
永遠の正義の意味は、自分が被る悪行は、全て自分の本質から流れ出しているという教えである。つまり、人間の至上の罪は、生まれてきたことなのだ。
これはキリスト教の原罪の教えであり、ヴェーダの中核、ウパニシャッドの、tat tvam asiという教えである。また、ウパニシャッドの教えを生きて最後に報酬として得られるのは、「汝は二度と生まれ変わらなくてよい」ということである。
刑法の目的は威嚇による未来の不正の防止である。この点で復讐とは異なる。
カント派の人々は、これは犯罪者を手段として利用することになると批判するが、目的が万人の利益の保護であることを忘れてはならない。
国家や刑法によって不正が根絶されても、次には国家間の戦争がやってくるし、戦争が根絶されれば地球全体で人口過剰が起こる。その結果の恐るべき悪禍は、今のところ大胆な想像力の持ち主にしか思い浮かべることは出来ない。
正義とは、不正に立ち向かうことである。不正が無ければ正義は存在しないように、消極的概念である。
不正によって被る不利益を防ぐためには、それを上回るだけの行為が必要であり、正当防衛によって相手を殺したとしても、それは正義であって不正ではない。ましてや、あらゆる暴力、策略、嘘が正義となりうる。
この考え方は、法に依らず不正を定義出来る。そのため、この不正の概念は、自然状態(ホッブズ)の人間ですら理解出来る。ゆえに、先験的、道徳的概念と言える。
嘘とは相手の認識を偽造することで、自分の意志の肯定のために、他人の意志をを操作することである。従って、明示的に嘘を言っていなくても、意図があれば嘘である。
特に契約違反は直接相手の意志を自分の意志に奉仕させることで、完全な不正である。
同様に、暴力より策略による不正の方が愚劣である。
こうした、裏切りや不誠実が最も愚劣な不正と直観的に理解出来るわけは、個体化した人類、絆による統一を阻むからである。
カントは先取権を所有権の基礎にしようとしているが、明らかに間違いだ。所有権を保証すべきは、その人が労働により手を加えたか否かである。
労働はその人の意志の発露であり、これを損なうことは不正に当たるからである。
あらゆる個体が意志を肯定することにより、不正が生まれる。不正とは、自分の意志の肯定のため、他人の利益を犠牲にすることだ。
不正ははなはだしきは人肉食、殺人、傷害に始まり、奴隷化、財産侵害、嘘と続く。
不正を行ったものが感じる良心の呵責は、意志が意志自身を喰らう、矛盾の直観である。