要約
ある夜デーモンが現れて、身を切るような君の孤独のうちに忍び込んで、こう言ったとしたらどうだろう?
「お前はこれまで生きてきたこの人生を、もう一度、
さらには無限回にわたり繰り返して生きなければならないだろう。そこには新しいことは何一つ無く、感じたことや考えたこと全て、大事から小事にいたるまでが、
そのままの配列と順序で回帰してくるのだ。―この蜘蛛も、梢を漏れる月光も、この瞬間も、このおれ自身もそっくりそのまま!」
ある夜デーモンが現れて、身を切るような君の孤独のうちに忍び込んで、こう言ったとしたらどうだろう?
「お前はこれまで生きてきたこの人生を、もう一度、
さらには無限回にわたり繰り返して生きなければならないだろう。そこには新しいことは何一つ無く、感じたことや考えたこと全て、大事から小事にいたるまでが、
そのままの配列と順序で回帰してくるのだ。―この蜘蛛も、梢を漏れる月光も、この瞬間も、このおれ自身もそっくりそのまま!」
以下は全て誤謬である。
知性は膨大な時間を費やして、このような誤謬ばかりを生み出してきたのだ。ただし、そうした誤謬のうちいくつかがたまたま生存の役に立って、適者生存の原理で受け継がれてきたのだ。
やがて、人類は真理にたどり着いた。だがそのときにはもう、生存のための誤謬たちが血肉として同化された後だった。
一部の自己欺瞞的な思想家たち(※おそらくショーペンハウアーが含まれる)は、真理や純粋認識を生きることが出来ると考えた。そして、生の衝動の威力を否定した。
しかし、認識の上に述べた誤謬や太古の衝動への依存、誤謬の生存への寄与、知的な遊戯衝動の存在などが明らかになってきたことで、ついに真理をめぐる闘争が、他の欲求と融合した。認識にとって「悪い」とされてきた本能が、真理をめぐる闘争に参加したのだ。すなわち、真理への衝動もまた、生を維持する力であることがいまや実証された。
思想家とは、真理への衝動と生を維持する誤謬が戦闘の火蓋を切る戦場である。
世界を有機体とみなす考えを信じるな。
世界を機械とみなす考えを信じるな。
世界が生の衝動を持つという考えを信じるな。
永遠の存在を信じるな。全ての存在は生と死とともにある。
こうした考えを信じる人間は、神の影に目を曇らされている。いつになったら我々は神の過保護から解放されるのだろうか?いつになったら我々は、自然に帰ることが出来るのだろうか?
(自然に帰る=『悲劇の誕生』§8のサテュロスの章を参照)
神は死んだ。
だが、仏陀が死んでから2000年経っても、人々は仏陀の影に捉われ続けた。
我々は、神だけではなく、神の影をも克服しなければならない。
(この章は最も詩的な章のひとつであり、その部分は要約できない)
男性は自分自身の騒音の中で苦しんでいる。そこに女性が、静かで、幸福な存在として通り過ぎることで、男性は女性に憧れるのだ。それはまさに、どよもす波濤の中に神秘的な船が現れたかのようだ。
しかし船も船で、乗ったら船の騒音が煩いものだ。女性の魅力は遠隔作用、近づいてしまえばその魔力は消えうせる。
我々は女性をひとたび愛せば、愛を神格化してしまい、彼女の皮膚の内側のおぞましい生理的側面から目をそらそうとする。女性の生理を意識することは、愛に対する攻撃のように感じられる。
かつて、神を信ずる者たちが、神の道徳的意志を愛するがゆえに、科学を神への攻撃と捉えたことに、よく似ている。
人間は何か感情を持てばたちまち、不都合な現実から目をそらし、夢を見続ける。我々は夢遊病者だ!たいした芸術家だ!我々は高地では無く、盤石の平地に安住している。
物事がどう見えるか、どう評価されるかは、物事の本質よりも重要である。たしかにそれは衣装に過ぎないのに、長い年月の間に肉体と同化し、ついには外面として世界に「作用」するのだから!
迷妄の衣装さえ剥ぎ取れば、世界を破壊できると考えるのは楽天的過ぎる。
ましてや、我々が創造者ならば、如何に新奇で深淵そうに見える雰囲気を創造できるかが全てである。
冷徹な人々は、情熱や感情を否定し、現実主義者を自任しているが、実は彼らも情熱や感情の虜なのである。
なぜなら、この世のあらゆる「現実」に色付けを与えるのは、情熱や感情だからであり、これらの陶酔無くしては現実など感じられないものになるからである。そして彼らもその現実を愛しているのだ。
星よ、汝の輝きは最も遠い世界のためにある。
近しきものへの同情は罪だと思え!
ニーチェの、「高貴なもの」「超人」「永劫回帰」の思想の萌芽が現れている名言。元は、「喜ばしき知識」序章の詩の一部。
若者は何かをやりたいという漠然とした欲求(§38 爆発する人々)に襲われるが、実はそれは奴隷的な、苦悩への欲求に過ぎない。彼らは行動のための理由を探しているが、それが内面から溢れ出て来ないので、「逆境」が必要なのだ。
だから彼らは、政治家の言うことや、ねつ造された苦境を無批判に信じ込んでしまう。彼らは空想の怪物を作り出すが、あとあとそれらと闘いたいだけなのだ。
こうして彼らは苦境が外部からやってくると信じているが、高貴な人間は、自己の内部で独自の苦境を創造するのである。それに対し低俗な人間、彼ら奴隷的なものは、苦悩への欲求から、常に他人の、そのまた他人の不幸を望んでさえいる。