物事がどう見えるか、どう評価されるかは、物事の本質よりも重要である。たしかにそれは衣装に過ぎないのに、長い年月の間に肉体と同化し、ついには外面として世界に「作用」するのだから!
迷妄の衣装さえ剥ぎ取れば、世界を破壊できると考えるのは楽天的過ぎる。
ましてや、我々が創造者ならば、如何に新奇で深淵そうに見える雰囲気を創造できるかが全てである。
物事がどう見えるか、どう評価されるかは、物事の本質よりも重要である。たしかにそれは衣装に過ぎないのに、長い年月の間に肉体と同化し、ついには外面として世界に「作用」するのだから!
迷妄の衣装さえ剥ぎ取れば、世界を破壊できると考えるのは楽天的過ぎる。
ましてや、我々が創造者ならば、如何に新奇で深淵そうに見える雰囲気を創造できるかが全てである。
苦境には肉体の苦境と魂の苦境がある。
結局、どちらの観点からしても、現代では魂と体の苦境に苦しむ人間を見ることはあまり無いと言える。
この結果、苦境に対する潔癖性が生まれ、現代においてはほんの少しの苦痛でさえ憎悪されるようになった。苦痛の存在は考えるのさえもいけないことで、良心の問題として非難を浴びせかけるのだ。生存が快適になったことで、今度は蚊に刺された程度の苦痛を、人生の価値の否定に仕立て上げてしまう。厭世主義的な哲学への処方箋は、本物の苦境を味わうことしか無い。