仮象は実在の反対ではない。むしろ仮象こそが作用するものである。仮象は我々が破滅しないために必要なものだ。仮象は人生と言う夢と、人生同士の交流を持続させるための最良の手段である。
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仮象は実在の反対ではない。むしろ仮象こそが作用するものである。仮象は我々が破滅しないために必要なものだ。仮象は人生と言う夢と、人生同士の交流を持続させるための最良の手段である。
アルキロコス(詩人・傭兵 紀元前680年頃 – 紀元前645年頃)は、民謡を文学に導入し、この業績によってギリシア人に広く認められ、ホメロスと並ぶ唯一の地位を与えられた。
旋律が民衆から素朴な評価をうけることは、重要なことであるし、優れた旋律は、さまざまな歌詞の付け方に耐えうる普遍性をそなえている。
そのため、民謡の歌詞においては、言語が音楽を模倣しようとしてきわめて強く緊張している。
この緊張のゆえに、ホメロス的世界とは相容れない新しい詩の世界が始まるのである。
類似の例として、ベートーヴェンの交響曲がある。
ベートーヴェンの交響曲をきくひとりびとりの聴衆は、形象によって曲の印象を語りたいという思いに駆られるのだが、楽曲自体はもっと多彩で支離滅裂である。
たとえばある交響曲を『田園』とよび、ある楽章を「小川のほとりの情景」、他の楽章を「農夫のたのしいつどい」と名づけても、それはやはり、単なる比喩にすぎず、音楽によって模倣された対象ではない。
ショーペンハウアーの哲学によれば、音楽は形象と概念との鏡に照らされて、意志として現象する。
抒情詩人はアポロ的天才として、音楽を意志という形象によって解釈する。
つまり、第一に、抒情詩は音楽の精神に依存しており、そして第二に、音楽自体はその完全な無制約性のゆえに形象や概念を必要とせず、むしろ形象や概念がかたわらにあることを我慢しているにすぎない。
だから、音楽の世界象徴法にたいしては、単なる比喩である言語では太刀打ちできず、いかなる抒情的雄弁の粋をもってしても、音楽の精神には、われわれは一歩たりとも近づくことができないのだ。
真の存在すなわち意志は、苦悩するもの・矛盾撞着に満ちたものである。
意志を救済するためには、心を魅了する幻像や仮象を必要とする。
夢を見るのが快感なのは、意志から生じる欲求がより高度な満足を得るために、個体などの表象のさらに上の仮象を求めているからである。夢は仮象の仮象である。
アポロの力により、個人は、幻想を静かに観ずることにふけり、大海のまっただ中でも漂う小舟の上に安らかにすわっていられるように、悲惨な生を生きられることになった。個体化のこの神化という作用を得るために、ギリシア的な意味における節度が要求された。
これに反して、慢心と過度とは、非アポロ的領域の憎むべき魔物であった。
慢心と過度とはアポロ以前の時代の、巨人時代、すなわち蛮族世界の特性として考えられていた。
アポロ的ギリシア人にしてみれば、ディオニュソス的なものが巻き起こした作用にしても、やはり「巨人的」で「野蛮的」であると思われた。
しかし、ギリシア人は、一切の美と節度とを備えているのにも関わらず、彼の全存在が苦悩と認識を覆い隠した地底の上に立っていることを分かっていたのだ。ディオニュソス祭の魔法の調べが、この覆いをはぎ取った。そしてアポロは、ディオニュソスなしでは生きていくことが出来ないことが証明されたのだ。「巨人的なもの」と「野蛮的なもの」とは、結局、アポロ的なものと同じ程度に必要な事だったのだ!
こうして歴史を振り返れば、ディオニュソス的なものとアポロ的なものとは、幾度も新たな産児を設けて相互に高め合いながらギリシア的な本質を支配してきた。まず巨人の闘争や辛辣な民間哲学をもつ「青銅」時代があり、その中から、アポロ的な美の衝動に支配されたホメロス的世界が生まれた。
しかしこの「素朴」なドリス式芸術の時期は、ディオニュソス的なものの到来とともに終わり、アッチカ悲劇、劇形式の酒神讃歌の誉れ高い崇高な作品がわれわれの眼前に示されることになったのだ。
真の存在=意志 というのは、ショーペンハウアーの哲学からの引用である。ショーペンハウアーは、「世界は意志と表象のみからなる」と説いた。意志は盲目的な飢餓の衝動に突き動かされ、無意味な努力を永遠に続けようとする。ショーペンハウアー哲学では、表象の純粋認識だけが意志の苦痛を救いうるとされ、ほぼほぼこのアポロ芸術論と同じである。
このころのニーチェはショーペンハウアーに多大な影響を受けているが、後期決裂し、激しく批判を加えるようになる。
何故かというと、後期ニーチェは意志の存在自体を否定し、偶然が支配する永劫回帰の哲学を発見したからである。偶然と熱狂的な高貴さに鼓舞される超人思想は、間違いなくディオニュソス的芸術の延長線上にある。
アポロ的文化はどのような土台の上に成り立ったのだろうか。
アポロ的衝動によって産み出されたオリンポスの神々には、他の宗教の神と違って、禁欲や義務を思いおこさせるようなものは何ひとつない。彼らは豊満な、勝ち誇った存在なのである。
ギリシアの民間の哲理は、シレノスに次のように語らせている。
「御身にとって最高のことは、手の届かぬところにある。
それは生まれなかったこと、存在しないこと、なにものでもないことなのだ。
しかし、御身にとって次に善いこととはすぐに死ぬことだ。」
このような哲理にたいして、オリンポスの勝ち誇った神々の世界はいかなる関係にあるのだろう?
神々は、人問生活を身をもって生きることにより、人間生活を是認しているのである。
ギリシア人は人生の悲惨さをよく知っていた。世界の深淵と、苦悩の敏感な感受能力を徹底的に克服するためには、楽しい妄想による眩惑と、喜びに溢れた幻影の群れの助けを必要としたのである。自然という巨人的な力に対する大きな不信は、ギリシア人によって、オリンポスの神々というあの芸術的な中間世界を通して克服されてきたのである。
恐怖という原始的暴君的な神々の秩序から、歓喜というオリンポスの神々の秩序が生み出されるに至ったのは、ゆっくりした経過をたどりつつアポロ的な美の衝動を通しておこなわれたことである。さながら棘のある藪の中から、薔薇の花が咲き出るのにこれは似ている。
シラーの「素朴な芸術」という概念があるが、これは決して単純な、自然発生的な状態のことを言うのではない。
芸術上の「素朴」といえば、アポロ的文化の最高の作用のことをいうのだと、われわれは考えている。
美をこのように映出することによって、ギリシア的「意志」は、苦悩に対する才能、苦悩を知恵によって処する才能という、およそ芸術的な才能とは相関的な天分に対して戦いを挑んだのであった。
そして、その勝利の記念碑として、われわれの目の前に立っているのがホメロス、素朴な芸術家なのである。
夢の世界の美しい仮象は、あらゆる造形芸術の前提である。夢の世界において、我々は物の形の直接的な理解を楽しむ。
芸術的な人間は、夢の現実に目を注ぐ。哲学者は、実生活を仮象であり夢の世界であると考える。彼らは夢から人生の意味を読みとり、その移ろいの中で人生の修練を積むのである。深い快感と歓喜に満ちた欲求を持って夢を経験することは、我々のもっとも内なる欲求であり、ギリシア人もこの欲求をアポロのうちに表現している。
語源的にいえば「照りかがやく者」、つまり光の神であるアポロは、内なる幻想世界の美しい仮象をも支配する。
ショーペンハウアーは、苦悩の世界のまっただ中で人間が生きられるのは、個体化の原理、つまり夢という仮象に支えられているからであると表現した。
だからアポロそのものを、「個体化の原理」の儚い神像とよぶこともできるだろう。