要約
ある夜デーモンが現れて、身を切るような君の孤独のうちに忍び込んで、こう言ったとしたらどうだろう?
「お前はこれまで生きてきたこの人生を、もう一度、
さらには無限回にわたり繰り返して生きなければならないだろう。そこには新しいことは何一つ無く、感じたことや考えたこと全て、大事から小事にいたるまでが、
そのままの配列と順序で回帰してくるのだ。―この蜘蛛も、梢を漏れる月光も、この瞬間も、このおれ自身もそっくりそのまま!」
ある夜デーモンが現れて、身を切るような君の孤独のうちに忍び込んで、こう言ったとしたらどうだろう?
「お前はこれまで生きてきたこの人生を、もう一度、
さらには無限回にわたり繰り返して生きなければならないだろう。そこには新しいことは何一つ無く、感じたことや考えたこと全て、大事から小事にいたるまでが、
そのままの配列と順序で回帰してくるのだ。―この蜘蛛も、梢を漏れる月光も、この瞬間も、このおれ自身もそっくりそのまま!」
ツァラトゥストラが洞窟に帰ってきて数日後、彼は突如寝床から跳ね起きて、狂人のように叫んだ。
起きてこい、深淵の思想よ!
(…中略…)
動き出したな?のどを鳴らしたな?はっきりモノを言え!
(…中略…)
―おお、うれしや、私の深淵が口を利く!有難い!近寄れ!
―うっ!離してくれ! -嘔吐、嘔吐、嘔吐!
ツァラトゥストラは死人のように倒れ、7日間眠り込んだ。しもべの鷲と蛇は彼のそばを離れず、看病し続けたが、遂に彼が回復したとみてこう尋ねた。
新しい知恵、重たい知恵があなたのもとにやってきたのでしょう。
起き上がりこの洞窟から出ましょう。外では万物は勝手に踊り、あなたを癒す。外では永遠の円環が回っている!
ツァラトゥストラは答えた。
私の動物たちよ、おまえたちのお喋りを聞いていると私は気が晴れる。
だが私の外に「外界」などないのだ。
深淵の思想は私の喉に入り込み、息の根を止めた。私はその頭を嚙みちぎり、吐き捨てた。
その苦しみをただ見物していたとは、動物たちよ、まるで人間のようではないか?偉大な人間の苦痛に、「同情」をもって寄り集まる小さな人間たち。躍起になって生に文句をつけるが、生に逆らえない人間たち。
人間はよりよくなると同時に、より悪くならなければいけない。人間における最悪も知れたもの、人間における最善も知れたものでしかない!
私は人間を嫌悪する。
だが、その嘔吐すべき人間たちは永遠の円環に乗って無限に回帰して来る。 -嘔吐、嘔吐、嘔吐!
鷲と蛇は彼が語るのを止めた。そして彼、快癒に向かう者に、語るのではなく歌うことを勧めた。
ツァラトゥストラは「永劫回帰の教師」となった。彼は目を閉じて、静かに自らの魂と語り合っていた。動物たちは彼の周りに漂う大いなる静寂を恐れて去った。
生を嫌悪する人間たちと、人間を嫌悪するツァラトゥストラは同じなのではないか。それでは、ツァラトゥストラは人間ニーチェの人間的な部分の表出に過ぎないことになってしまう。
ツァラトゥストラはそう行動しない。永劫回帰を歌い教え、嘔吐すべき人間の無限の回帰さえも「太陽の没落」として祝福するのである。
以下は全て誤謬である。
知性は膨大な時間を費やして、このような誤謬ばかりを生み出してきたのだ。ただし、そうした誤謬のうちいくつかがたまたま生存の役に立って、適者生存の原理で受け継がれてきたのだ。
やがて、人類は真理にたどり着いた。だがそのときにはもう、生存のための誤謬たちが血肉として同化された後だった。
一部の自己欺瞞的な思想家たち(※おそらくショーペンハウアーが含まれる)は、真理や純粋認識を生きることが出来ると考えた。そして、生の衝動の威力を否定した。
しかし、認識の上に述べた誤謬や太古の衝動への依存、誤謬の生存への寄与、知的な遊戯衝動の存在などが明らかになってきたことで、ついに真理をめぐる闘争が、他の欲求と融合した。認識にとって「悪い」とされてきた本能が、真理をめぐる闘争に参加したのだ。すなわち、真理への衝動もまた、生を維持する力であることがいまや実証された。
思想家とは、真理への衝動と生を維持する誤謬が戦闘の火蓋を切る戦場である。
世界を有機体とみなす考えを信じるな。
世界を機械とみなす考えを信じるな。
世界が生の衝動を持つという考えを信じるな。
永遠の存在を信じるな。全ての存在は生と死とともにある。
こうした考えを信じる人間は、神の影に目を曇らされている。いつになったら我々は神の過保護から解放されるのだろうか?いつになったら我々は、自然に帰ることが出来るのだろうか?
(自然に帰る=『悲劇の誕生』§8のサテュロスの章を参照)
物事がどう見えるか、どう評価されるかは、物事の本質よりも重要である。たしかにそれは衣装に過ぎないのに、長い年月の間に肉体と同化し、ついには外面として世界に「作用」するのだから!
迷妄の衣装さえ剥ぎ取れば、世界を破壊できると考えるのは楽天的過ぎる。
ましてや、我々が創造者ならば、如何に新奇で深淵そうに見える雰囲気を創造できるかが全てである。
苦境には肉体の苦境と魂の苦境がある。
結局、どちらの観点からしても、現代では魂と体の苦境に苦しむ人間を見ることはあまり無いと言える。
この結果、苦境に対する潔癖性が生まれ、現代においてはほんの少しの苦痛でさえ憎悪されるようになった。苦痛の存在は考えるのさえもいけないことで、良心の問題として非難を浴びせかけるのだ。生存が快適になったことで、今度は蚊に刺された程度の苦痛を、人生の価値の否定に仕立て上げてしまう。厭世主義的な哲学への処方箋は、本物の苦境を味わうことしか無い。