§3-5 日の出前

要約

ツァラトゥストラは天空を讃える。

天空よ!清浄、光の深淵よ、私はあなたに身投げしたい。もしも飛ぶことができたなら、私の漂泊や登攀など、力ないものの窮余の策でしか無い!

私は雲の流れを憎む。それらは天空を汚すものでしかない。私は金色の雷で雲を縛り付け、その横腹をどやしつけてやりたい!雲よりは雷鳴と驟雨が好ましい。(苦境への欲求)

天空では「永遠の意志(=)」や「合理性」というまやかしは存在しない。それらは目的に縛られた奴隷制だ。天空では、万物が偶然に従って踊る。神々は天空を卓として賽を振る。

昼が訪れる前に、ツァラトゥストラは天空に別れを告げた。

解説

ほんの10ページ前にツァラトゥストラが自らの本質とした「漂泊や登攀」は、既にここで否定されてしまった。

天空賛美の章だが、天空は神だと考えられているのではない。むしろ、「神は死んだ」というニーチェの思想通り、天空は奴隷道徳に支配された小さな人間が考え出した「神」から解放された存在なのだ。

それに対し、ニーチェは「神々」の存在を認める。これは汎神論に近く、あくまで「ねたむ神」唯一神ヤハウェが死んだと言って否定しているのである。この態度は、「悲劇の誕生」でアポロとデュオニソスを持ち出した初期の哲学から一貫している。永遠の意志の否定は、反キリスト教でもあり、反ショーペンハウアー哲学(キリスト教・修道院の礼賛)でもある。

§3-1 旅人

要約(p9~p15)

ツァラトゥストラは真夜中に尾根を歩いていた。翌朝船に乗り「至福の島」を出るために。

漂白と登攀は彼の本質であり、山頂と深淵は偉大さへの道であった。過酷な不可能な登攀の道をツァラトゥストラは求めた。

山頂から星を眼下に見渡すこと、あらゆる事物の根底を見渡すことを彼は求めた。

道のりが苛烈であるほど、それはむしろ彼の慰めとなった。

山頂に着くと、星と山向こうの海が広がっていた。彼は自分の「運命」を悟った。暗黒の中で身悶えする海、暗い怪物に彼は降りて行った。

彼は暗い怪物をも救おうとしたのだ。

命あると感じたものすべてを救おうとする自らの衝動に気付き、ツァラトゥストラはそれを笑い飛ばした!

しかし自らが救おうとしたが袂を分かってきた友人たちを思い出し、彼はたちまち泣いたのだった。

解説

星(喜ばしい知識)」にも、「孤高の救済者」のイメージは歌われているが、ここでは救済者の葛藤が描かれている。

ツァラトゥストラは宇宙全てを救おうとしており、暗い夜の海に語り掛けるシーンは圧巻である。

高貴な人間=救済者の感じる魂の苦境が描かれた。

§56 苦悩への欲求

若者は何かをやりたいという漠然とした欲求(§38 爆発する人々)に襲われるが、実はそれは奴隷的な、苦悩への欲求に過ぎない。彼らは行動のための理由を探しているが、それが内面から溢れ出て来ないので、「逆境」が必要なのだ。

だから彼らは、政治家の言うことや、ねつ造された苦境を無批判に信じ込んでしまう。彼らは空想の怪物を作り出すが、あとあとそれらと闘いたいだけなのだ。

こうして彼らは苦境が外部からやってくると信じているが、高貴な人間は、自己の内部で独自の苦境を創造するのである。それに対し低俗な人間、彼ら奴隷的なものは、苦悩への欲求から、常に他人の、そのまた他人の不幸を望んでさえいる。

§48 苦境の知識

苦境には肉体の苦境と魂の苦境がある。

  • 肉体の苦境について
    現代の人間にはこの経験が不足しているが、人類の歴史の大半を占める恐怖の時代では、個人が肉体の苦境から自分のみを守らなければならなかった。彼らは自らを鍛え、他人に好んで苦痛を与える残忍さを身につけ、自分自身の安全さに悦楽を覚えた。
  • 魂の苦境について
    現代の人間は魂の深刻な苦痛を自らの経験によって知らないし、心の底では信じていないとさえ言える。

結局、どちらの観点からしても、現代では魂と体の苦境に苦しむ人間を見ることはあまり無いと言える。

この結果、苦境に対する潔癖性が生まれ、現代においてはほんの少しの苦痛でさえ憎悪されるようになった。苦痛の存在は考えるのさえもいけないことで、良心の問題として非難を浴びせかけるのだ。生存が快適になったことで、今度は蚊に刺された程度の苦痛を、人生の価値の否定に仕立て上げてしまう。厭世主義的な哲学への処方箋は、本物の苦境を味わうことしか無い。