エピクロスの眼差しの先で、動物たちは戯れ、安らぎ、生存の海原も静まり返っている。その眼は海の肌合いを飽きもせずにいつまでも見つめている。
この慎ましい幸福の世界は、絶えず苦悩するものだけが作り出せるものである。
エピクロスの眼差しの先で、動物たちは戯れ、安らぎ、生存の海原も静まり返っている。その眼は海の肌合いを飽きもせずにいつまでも見つめている。
この慎ましい幸福の世界は、絶えず苦悩するものだけが作り出せるものである。
人間の内面の幸不幸を左右するのは、人間が何を自分の原動力だと思っているかという思い込みである。人間は実際の動機に対しては盲目で、二の次である。
法律はその民族の本質ではなく、その民族にとっての異端が何であるかを語る。
イスラムのワッハーブ派では殺人さえ死罪にならないのに、他の神を崇めれば死罪になるし、ローマでは女性が飲酒することが死罪とされた。ローマで恐れられたのは、女性の姦淫だけではなく、飲酒がもたらすディオニュソス的な状態であった。
普通の人間は報酬を目当てに労働する。しかし、芸術家、思想家、狩人、冒険家、遊び人といった人々は、仕事の喜びのために、多額の実入りに見向きもしない。
彼らは喜びのためなら、苦痛を感受する。喜びを味わえないことには無精で、たちまち貧困で退屈になる。しかし、退屈は独創的な人々にとっては、必要な「凪」なのだ。彼らは不快な凪を辛抱し、次の風のために耐え忍ぶ。なんと、凡人には望み得ない境地だろうか?!退屈さを追い払おうとするのは、凡人の証拠である。
思想家にとってことの成否は解答である。失敗を後悔するようなことは、奴隷に任せてしまうのだ。
世の中の趣味の変化は、少数の人々が自分の趣味の表明を行うことで起こる。そうした人々は特殊な生き方や生理をその根拠にする。
証明、反論、知的な仮装は、こうした生理のかすかな残響に過ぎない。
若者は選り好みをせずに無鉄砲になんにでも飛びつく。
彼らは導火線に飛びつく火薬樽だ。彼らには爆発の期待を抱かせ、その理由から徹底的に眼をそらさせればいい。
科学は神の善意と知恵を理解するために発展した。
認識と言うものが、幸福にとって有益だと考えられたためでもある。
科学は、無邪気であり、真に無垢なるものが発見されるとされたためでもある。
だからスピノザは認識をすることで自身を神的と感じた。
兵士の上官に対する畏怖が 、労働者の雇用者に対する畏怖より大きいのは、大衆の奴隷根性が原因である。大衆は、より高貴な外見の者に命令されたがる。産業界の雇用者は、狡猾で貪欲で人の不幸につけこむ人間の屑くらいに思っているのだ。これが軍事が産業より高貴である理由である。
皇帝が死ぬ時、仮面をかぶってきた人生を告白する。アウグストゥスも、ネロも、末期の言葉は俳優の駄弁であった。
ティベリウスは沈黙のうちに死んで行った。彼こそは本物だったのだ。しかし、彼が持ち直そうとした時、周囲のものは気を遣って、枕で彼を窒息させたのだった。