§31 商業と貴族

かつて野生においては誰もが狩猟者だったが、今では貴族の贅沢である。

今誰もが売り買いをしているが、やがて貴族の贅沢になるだろう。これまで戦争や政治がそうであったように、貴族が喜んで従事するのだ。

逆に政治はどんどん卑俗になり、精神の淫売の烙印を押されるだろう。

§30 著名人の喜劇

名声を必要とする、例えば政治家などの人々は、さんざん他人の人格を利用する。いろんな人の人格の反映のご利益を望む下心があるからだ。彼は栄え、その周りは荒廃してゆく。

彼らの名声は絶えず変化する。彼は変転するやり口を好むからだ。
しかし、彼が真に望むものは堅固で、遠くまで光を放つはずだったのだ。今度はそのための舞台演出が必要になってしまう。

§26 生きるとは何か?

要約

生きるとは絶えず死につつある何かを体外に排出することだ。

我が身に限らず、弱者で古いもの一切に対して、常に殺害者であることだ。

解説

知性より殺害を、生より死を好む傾向 – エーリッヒ・フロムはこれを「ネクロフィラス」と名付けた。

フロムはヒトラーを憎んでいたから、ヒトラーをネクロフィラスな人間の筆頭とした。例えば、噂話のレベルとはしながらも、ヒトラーが腐乱死体を一心不乱に見つめ夢中になった逸話などを引き合いに出した。

他には、「未来派宣言」のマリネッティを挙げている。マリネッティは、命あるもの全てを古いものとして憎み、自動車と飛行機とスピードの称賛をした詩人である。(そして、古い”パスタ”食を忌み嫌ったことでも有名だ。)

一歩間違うと、ニーチェの超人思想はこれらの考え方と同じ方向を向いているようにも読める。

しかし、ニーチェが生の肯定者であることを忘れてはいけない。ニーチェは、普通に生きることはある意味殺害者であることを主張している。それは、普通に生きず、よりネクロフィラスに生きるべきだということを意味しない。

このようにニーチェの超人思想は、悪用と曲解にまみれてきたのだった。