弱気な謙虚さに取り憑かれたものは、たとえ真理を発見しても、その遠慮から見て見ぬ振りをし、真理から逃げ出してしまうだろう。
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弱気な謙虚さに取り憑かれたものは、たとえ真理を発見しても、その遠慮から見て見ぬ振りをし、真理から逃げ出してしまうだろう。
不平家は軟弱で女性的だ。彼らは麻薬的な慰安を与える司祭のような人々に弱く、医者を嫌悪する。自らの困窮を引き伸ばしさえする。
しかし不平家が大量発生したおかげで、つねにヨーロッパは変化を余儀無くされ、進歩してきたのだ。そしてその変化し続ける状態の危険さから、鋭敏な知性と天才が生まれたのだ。
頽廃とは?迷信が民族を覆い、自由思想を奪い去る。迷信を信じる個人は、宗教に熱心な個人より喜びを多く感じさえする。迷信は信仰からの進歩なのだ。
頽廃とは?無気力な社会の出現である。そこでは快適な生活が熱心に追求される。ところがこの方が、戦時中よりも消費されるエネルギーの総量は多いのだ。
頽廃した時代は平和だろうか?残忍さのスタイルが変わるだけである。残忍さは洗練され、悪意が発明される。
頽廃した時代には、人心が荒廃し、暴君が台頭する。カエサルが登場し、知識人に尻尾を振らせ、文化の絶頂を謳歌する。カエサルは個人の権利を擁護し、エゴイズムを後押ししてやる。頽廃した時代は民族の没落する秋であり、個人の権利だけが考慮される時代である。
他人(国王)のためにタイムテーブルを気を揉んで作って一日を送るのはまっぴらだ。
善なる徳、すなわち勤勉、従順、貞節、経験、正義は、それを備えることに犠牲を伴う。それは社会への奉仕のために個人を犠牲にすることで、非理性的である。しかし世の人は、犠牲が捧げられたということ自体を賞賛するのだ。
徳の賛美とは、個人には有害なものの賛美であり、さらに利益をもってして「教育」が行われている。無我夢中に勤勉に働くことは、富と名誉への道として賛美される。この教育により、人間を内からも上からも支配できるようになる。これで「公共の利益」が守られる。
最高の私的目標は、なんであったのか?彼はもう精神が麻痺して分からない。隣人は利益を得るために徳を賛美する。
数千年後には、賢明であることはありきたりになり、頭の中に愚劣さを抱くことこそが品格とみなされるだろう。
強壮な者は虐げられることで成長する。弱者を殺す毒物は、なんと恵まれた環境だろうか。
悪評、抵抗、憎悪、嫉妬が強者を目覚ましく成長させる。
古代の哲学者は、哲学者でない人間は王侯貴族であっても奴隷だと主張した。
我々にはピンとこない。現代社会で我々には、行動の自由も、余暇の時間も無いのだから。
万人が平等だという思想に慣れっこになってしまった我々の中には、すでに奴隷的要素がたっぷりあるのだろう。
徳を増やすことは出来ないので、皆貧しい徳に対する言い訳を必要としている。
水量が足りない時、庭師がニンフの腕から水が流れる像を作るように、徳の源泉を様々に解釈する。
熱狂に包まれた高揚感を、恥ずかしいと思うものもいるのだ。そういう人のためには、笑わせたり皮肉を浴びせかけて、冷静にしてから話しかけることだ。