山は、遠くから見た方がよく、あまり近づきすぎると台無しになる。人間も、自己認識に耐えられず、自分自身をある程度遠くから眺めることで、魅力と活力を感じられるという類いがいる。
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山は、遠くから見た方がよく、あまり近づきすぎると台無しになる。人間も、自己認識に耐えられず、自分自身をある程度遠くから眺めることで、魅力と活力を感じられるという類いがいる。
すでに持っている者にとっては所有欲は軽蔑の対象であるが、持たざるものによって、同じものが「愛」と呼ばれる。
しかし、所有は飽きるものである。どれほど風光明媚な土地も、3ヶ月過ぎれば飽きるものだ。(ニーチェは旅好きである)何処か遠くの海岸が、我々の所有欲を掻き立てる。我々は、絶えず新奇なものを取り入れていないと喜びを感じられないのだ。
さて、所有欲の最たるものは男女の愛の場合で、愛する男は世の中全てから財宝を守る龍となる。愛はエゴイズムと同じものなのだ。
しかし持たざるものは、愛をエゴイズムとは対極の概念に作り変えてしまった。有り余る所有に恵まれたものは、それを荒れ狂う魔物に形容したのに。
ただし、二人の人間の所有願望が、お互いでなく、新しい理想に向かう場合がある。このような愛の名を、友情という。
人は快楽には安住するが、苦痛に対しては常に原因を探す生き物だ。だから、我々は服従させたい相手には苦痛を与える。すでに相手が服従しているなら、快楽を与え、支配の恩恵を教育するのだ。
しかし、我々が苦痛を与えるということは、まだ我々に十分な権力が無いからでもある。だから、他人に苦痛を与えることで満足できるのは、権力に貪欲な人間だけである。
権力に貪欲であるかどうかは、その人の好みの問題である。ただ、誇り高い人間は、たやすく屈服する獲物を唾棄する。悩めるものに対しても冷淡だ。自分より上か同格の敵に対してのみ敬意を払う。これが騎士道の起源である。逆に弱者への同情は、娼婦の徳である。
人は、不快が少ない代わりに快も少ないストイックな人生を選ぶこともできるし、快が大きい代わりに不快も大きい人生を選ぶこともできる。
学問は、偉大なる苦痛の招来者、そして歓喜に満ちた天界をもたらすものとして、第二の人生に貢献しうる。
意識は、有機体の発達の最後に現れた、最も未完成な機能である。そのため、誤謬に陥ってばかりいる。
しかし人類は、意識を統一作用と呼び、有難がって来た。この意識への過信のおかげで、意識の機能としての発達はますます遅れることになった。だが意識の発達が阻害されたことは、結果的に有益だった。意識によって、人類は知恵ではなく、誤謬を自らの血肉としてきたからである。
誤謬を取り入れることをやめ、知恵を自らの血肉として、本能と一体化させることこそが我々の未来のための、つい最近芽生えたばかりの課題である。
偉人の才能は、旧世代では微弱で忘れられていた力が後世に突如として現れたものである(§9 噴火)。
そうした力を身のうちに感じるものは、旧世代による抵抗と戦うことになる。勝利すれば偉人として大成し、負ければ風変わりな変人となる。
しかし、これは旧世代より幸せなことである。過去にそうした力を持っていても、ありふれていて、当時の旧世代にとって脅威でなかったので、単に無視され、抵抗を受けることもなく、偉人として大成することも無かったのだろう。
偉人は古い民族から生まれる。異才をもつ人は、保守的な民族の精神との戦いを通じて、偉人へと大成するからである。
ニーチェは、高貴な人間、偉人は、自ら苦境を獲得すると述べている。旧世代との戦いが、その苦境のひとつである。
1ページに満たない短い章だが、ニーチェの超人思想にとって重要なことが書かれているのを見落としてはならない。
我々には太古から受け継いだ微弱な独自の性質が無数にある。
それらは長い年月で強化され、火山のように突然数世代後に噴火する。
先祖を振り返れば、ある才能や、ある道徳が全く欠けているかのように見えるだろう。それは、その時代に余りに微弱だったものが、現世代で噴火したからである。
逆に、今の時代に微弱なものが、早ければ子の世代で噴火することだろう。父親は息子を見てはじめて、自分自身を理解することになるだろう。
「周囲に目撃されることを前提としている性質」がある。そのような性質は、独自の発展様式を持つ。我々の目につく道徳的性質、例えば勤勉さや、野心や、才覚も、これ見よがしなもので、同様に発展する。
爬虫類の鱗に刻まれた模様は、人間なら顕微鏡で確認できるが、同じ爬虫類には気づかれずに発展してきたものである。これは「目に見えにくい性質」である。我々の勤勉さや野心や才覚にも人に見えない部分がある。それは別の発展様式を持つ。
これを「無意識の徳」と呼ぶならそれでよい。ただ、そうした鱗の細かい文様を見るための顕微鏡を発明し、覗かずにいて、満足してよいものだろうか?
今日、学問にとっての研究対象は広がるばかりである。実際、既存の学問の範囲は狭すぎる。以下のような範囲にも、学問や研究が必要ではないか。
これらどの分野にも勤勉な人々の何世代にもわたる協力が必要なのだ。
こうした研究が残らず完了したとき、人間の行為の全ては説明され尽くし、もはや人間は行為に際し目的を持てなくなるだろう。
そして代わりに、学問が人間に、行為の意味を教えてくれる時代がくるだろう。
そのとき、幾世紀をまたにかけ、あらゆるヒロイズムを満足させるような実験が行われるだろう。
沈思黙考、この古い賢者のスタイルは、人々に嘲笑されるようになり、威厳が失墜した。現代人はせっかちになり、歩きながら、片手間に、考えるようになった。たとえそれが真剣な問題を考えるときであっても。
だが、人間は、どんな騒音、天候でも働く思考機械を持ち合わせてはいない。
本来「やって来た」ときには、路上で突然何時間も佇んでいても不思議ではないのだ。