他人(国王)のためにタイムテーブルを気を揉んで作って一日を送るのはまっぴらだ。
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他人(国王)のためにタイムテーブルを気を揉んで作って一日を送るのはまっぴらだ。
善なる徳、すなわち勤勉、従順、貞節、経験、正義は、それを備えることに犠牲を伴う。それは社会への奉仕のために個人を犠牲にすることで、非理性的である。しかし世の人は、犠牲が捧げられたということ自体を賞賛するのだ。
徳の賛美とは、個人には有害なものの賛美であり、さらに利益をもってして「教育」が行われている。無我夢中に勤勉に働くことは、富と名誉への道として賛美される。この教育により、人間を内からも上からも支配できるようになる。これで「公共の利益」が守られる。
最高の私的目標は、なんであったのか?彼はもう精神が麻痺して分からない。隣人は利益を得るために徳を賛美する。
数千年後には、賢明であることはありきたりになり、頭の中に愚劣さを抱くことこそが品格とみなされるだろう。
強壮な者は虐げられることで成長する。弱者を殺す毒物は、なんと恵まれた環境だろうか。
悪評、抵抗、憎悪、嫉妬が強者を目覚ましく成長させる。
古代の哲学者は、哲学者でない人間は王侯貴族であっても奴隷だと主張した。
我々にはピンとこない。現代社会で我々には、行動の自由も、余暇の時間も無いのだから。
万人が平等だという思想に慣れっこになってしまった我々の中には、すでに奴隷的要素がたっぷりあるのだろう。
徳を増やすことは出来ないので、皆貧しい徳に対する言い訳を必要としている。
水量が足りない時、庭師がニンフの腕から水が流れる像を作るように、徳の源泉を様々に解釈する。
熱狂に包まれた高揚感を、恥ずかしいと思うものもいるのだ。そういう人のためには、笑わせたり皮肉を浴びせかけて、冷静にしてから話しかけることだ。
山は、遠くから見た方がよく、あまり近づきすぎると台無しになる。人間も、自己認識に耐えられず、自分自身をある程度遠くから眺めることで、魅力と活力を感じられるという類いがいる。
すでに持っている者にとっては所有欲は軽蔑の対象であるが、持たざるものによって、同じものが「愛」と呼ばれる。
しかし、所有は飽きるものである。どれほど風光明媚な土地も、3ヶ月過ぎれば飽きるものだ。(ニーチェは旅好きである)何処か遠くの海岸が、我々の所有欲を掻き立てる。我々は、絶えず新奇なものを取り入れていないと喜びを感じられないのだ。
さて、所有欲の最たるものは男女の愛の場合で、愛する男は世の中全てから財宝を守る龍となる。愛はエゴイズムと同じものなのだ。
しかし持たざるものは、愛をエゴイズムとは対極の概念に作り変えてしまった。有り余る所有に恵まれたものは、それを荒れ狂う魔物に形容したのに。
ただし、二人の人間の所有願望が、お互いでなく、新しい理想に向かう場合がある。このような愛の名を、友情という。
人は快楽には安住するが、苦痛に対しては常に原因を探す生き物だ。だから、我々は服従させたい相手には苦痛を与える。すでに相手が服従しているなら、快楽を与え、支配の恩恵を教育するのだ。
しかし、我々が苦痛を与えるということは、まだ我々に十分な権力が無いからでもある。だから、他人に苦痛を与えることで満足できるのは、権力に貪欲な人間だけである。
権力に貪欲であるかどうかは、その人の好みの問題である。ただ、誇り高い人間は、たやすく屈服する獲物を唾棄する。悩めるものに対しても冷淡だ。自分より上か同格の敵に対してのみ敬意を払う。これが騎士道の起源である。逆に弱者への同情は、娼婦の徳である。