哲学者が不機嫌に叫んだ。一人の弟子は「否」と言う快楽を理解しない。苦しませることの意欲、好戦的な魂が欠けているのだ。もう一人の弟子は何事もほどほどに済まし、全てを凡庸にしてしまう。奴らはむしろ私の敵にふさわしい。
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哲学者が不機嫌に叫んだ。一人の弟子は「否」と言う快楽を理解しない。苦しませることの意欲、好戦的な魂が欠けているのだ。もう一人の弟子は何事もほどほどに済まし、全てを凡庸にしてしまう。奴らはむしろ私の敵にふさわしい。
かつて野生においては誰もが狩猟者だったが、今では貴族の贅沢である。
今誰もが売り買いをしているが、やがて貴族の贅沢になるだろう。これまで戦争や政治がそうであったように、貴族が喜んで従事するのだ。
逆に政治はどんどん卑俗になり、精神の淫売の烙印を押されるだろう。
名声を必要とする、例えば政治家などの人々は、さんざん他人の人格を利用する。いろんな人の人格の反映のご利益を望む下心があるからだ。彼は栄え、その周りは荒廃してゆく。
彼らの名声は絶えず変化する。彼は変転するやり口を好むからだ。
しかし、彼が真に望むものは堅固で、遠くまで光を放つはずだったのだ。今度はそのための舞台演出が必要になってしまう。
ある法則に慣れてしまって、他のやり方が嫌になった者たちは、変わらなくて良い理由を捻り出し、自分たちを丸めこむ。
これが保守派の不誠実さだ。
偉大な人物は最善のもの、彼ら「のみ」がなしうることで影響を与える。脆弱なものや頼りないもの、育ち盛りのものや野心家が最善のものをがぶ飲みし、したたか酔っ払い、隘路で破滅する。
最善のものは我々を前進させるが、自分の弱点も露わにしてしまうからである。
隠遁者はより高い世界に登るため多くのものを犠牲にする。人々にはその犠牲にしたものしか見えない。隠遁者のほうでも、自分の誇りや狙いを隠そうとする。彼は肯定の人である。
生きるとは絶えず死につつある何かを体外に排出することだ。
我が身に限らず、弱者で古いもの一切に対して、常に殺害者であることだ。
知性より殺害を、生より死を好む傾向 – エーリッヒ・フロムはこれを「ネクロフィラス」と名付けた。
フロムはヒトラーを憎んでいたから、ヒトラーをネクロフィラスな人間の筆頭とした。例えば、噂話のレベルとはしながらも、ヒトラーが腐乱死体を一心不乱に見つめ夢中になった逸話などを引き合いに出した。
他には、「未来派宣言」のマリネッティを挙げている。マリネッティは、命あるもの全てを古いものとして憎み、自動車と飛行機とスピードの称賛をした詩人である。(そして、古い”パスタ”食を忌み嫌ったことでも有名だ。)
一歩間違うと、ニーチェの超人思想はこれらの考え方と同じ方向を向いているようにも読める。
しかし、ニーチェが生の肯定者であることを忘れてはいけない。ニーチェは、普通に生きることはある意味殺害者であることを主張している。それは、普通に生きず、よりネクロフィラスに生きるべきだということを意味しない。
このようにニーチェの超人思想は、悪用と曲解にまみれてきたのだった。
弱気な謙虚さに取り憑かれたものは、たとえ真理を発見しても、その遠慮から見て見ぬ振りをし、真理から逃げ出してしまうだろう。
不平家は軟弱で女性的だ。彼らは麻薬的な慰安を与える司祭のような人々に弱く、医者を嫌悪する。自らの困窮を引き伸ばしさえする。
しかし不平家が大量発生したおかげで、つねにヨーロッパは変化を余儀無くされ、進歩してきたのだ。そしてその変化し続ける状態の危険さから、鋭敏な知性と天才が生まれたのだ。
頽廃とは?迷信が民族を覆い、自由思想を奪い去る。迷信を信じる個人は、宗教に熱心な個人より喜びを多く感じさえする。迷信は信仰からの進歩なのだ。
頽廃とは?無気力な社会の出現である。そこでは快適な生活が熱心に追求される。ところがこの方が、戦時中よりも消費されるエネルギーの総量は多いのだ。
頽廃した時代は平和だろうか?残忍さのスタイルが変わるだけである。残忍さは洗練され、悪意が発明される。
頽廃した時代には、人心が荒廃し、暴君が台頭する。カエサルが登場し、知識人に尻尾を振らせ、文化の絶頂を謳歌する。カエサルは個人の権利を擁護し、エゴイズムを後押ししてやる。頽廃した時代は民族の没落する秋であり、個人の権利だけが考慮される時代である。