§2 知的良心

ありきたりの人々は、生存の不確実さと曖昧さの中に身を置きながら、問を発することさえしない。それどころか、そうした問に無関心ですらある。だから、根拠もなくもろもろのことを信じて、それを頼りに生きているのだ。これは知的良心に欠けた、恥ずべき生き方である。才気爆発の男たちや洗練された極上の女たちでさえも、ありきたりの生き方に甘んじている。

これに対し、理性に憎悪を抱くことは、知的良心の疼きであり、好ましい。

§1 生存の目的の教師

要約

個体として善人/悪人であることと、種族の保存に有益かどうかは別のことである。むしろ、本能的欲望に忠実な悪人こそ、種族の保存には素晴らしく有益である。確かに種族全体としては、不経済なエコノミーではあるが。

諸君、欲望に身を任せて見給え!底の底まで極めて見給え!個体としては賞賛されあるいは嘲笑されるだろうが、人類を促進し益することに変わりはない。自分自身を笑い飛ばせ。「種こそが全てであり、個体など無に等しい」 – こんな考えが人類の血肉と化したなら、そのときこそ笑いと知恵が手を結び、「悦ばしき知恵」だけが残るだろう。

現代の宗教や道徳は「生は生きるに値する」と吹聴している。本当は、種の保存は性欲のような単なる衝動に過ぎないというのに、そこに何らかの意味があるかのように吹聴し、その事実を忘れさせようとするのだ。それにより生への信仰を維持し、種の存続に貢献しているのだ。

「生は愛されるべきだ!」

「人間は自己と隣人を向上させるべきだ!」

「生きることには価値がある!」

こうした生における理性への信仰、「生存の目的の教師」に騙されるな。これらを笑い飛ばす潮時が来たのだ。

解説

ニーチェの考える「高貴な人間(≒悪人)」は、「生存の目的」を笑い飛ばして欲望のままに生き、結果として人類全体を益する。それこそが自らの運命を愛し(§341 永劫回帰)、大いなる健康(§382 大いなる健康)を得た人間である。

『ツァラトゥストラはかく語りき』関連個所

『ツァラトゥストラはかく語りき』はニーチェの最も有名な著書と言われる。

喜ばしい知識の出版は1882年、ツァラトゥストラはかく語りきの出版は1885年であり、連続した著作である。ここでは、§1と同じ主張について『ツァラトゥストラはかく語りき』より引用する。

真理が生まれるためには、善人たちに悪と呼ばれている全てのものが集まってくる必要がある。

 ー 「古い石板と新しい石板」(§7)

古い妄想がある。善と呼ばれ、悪と呼ばれる。

 ー 「古い石板と新しい石板」(§9)