我々は女性をひとたび愛せば、愛を神格化してしまい、彼女の皮膚の内側のおぞましい生理的側面から目をそらそうとする。女性の生理を意識することは、愛に対する攻撃のように感じられる。
かつて、神を信ずる者たちが、神の道徳的意志を愛するがゆえに、科学を神への攻撃と捉えたことに、よく似ている。
人間は何か感情を持てばたちまち、不都合な現実から目をそらし、夢を見続ける。我々は夢遊病者だ!たいした芸術家だ!我々は高地では無く、盤石の平地に安住している。
我々は女性をひとたび愛せば、愛を神格化してしまい、彼女の皮膚の内側のおぞましい生理的側面から目をそらそうとする。女性の生理を意識することは、愛に対する攻撃のように感じられる。
かつて、神を信ずる者たちが、神の道徳的意志を愛するがゆえに、科学を神への攻撃と捉えたことに、よく似ている。
人間は何か感情を持てばたちまち、不都合な現実から目をそらし、夢を見続ける。我々は夢遊病者だ!たいした芸術家だ!我々は高地では無く、盤石の平地に安住している。
物事がどう見えるか、どう評価されるかは、物事の本質よりも重要である。たしかにそれは衣装に過ぎないのに、長い年月の間に肉体と同化し、ついには外面として世界に「作用」するのだから!
迷妄の衣装さえ剥ぎ取れば、世界を破壊できると考えるのは楽天的過ぎる。
ましてや、我々が創造者ならば、如何に新奇で深淵そうに見える雰囲気を創造できるかが全てである。
冷徹な人々は、情熱や感情を否定し、現実主義者を自任しているが、実は彼らも情熱や感情の虜なのである。
なぜなら、この世のあらゆる「現実」に色付けを与えるのは、情熱や感情だからであり、これらの陶酔無くしては現実など感じられないものになるからである。そして彼らもその現実を愛しているのだ。
星よ、汝の輝きは最も遠い世界のためにある。
近しきものへの同情は罪だと思え!
ニーチェの、「高貴なもの」「超人」「永劫回帰」の思想の萌芽が現れている名言。元は、「喜ばしき知識」序章の詩の一部。
若者は何かをやりたいという漠然とした欲求(§38 爆発する人々)に襲われるが、実はそれは奴隷的な、苦悩への欲求に過ぎない。彼らは行動のための理由を探しているが、それが内面から溢れ出て来ないので、「逆境」が必要なのだ。
だから彼らは、政治家の言うことや、ねつ造された苦境を無批判に信じ込んでしまう。彼らは空想の怪物を作り出すが、あとあとそれらと闘いたいだけなのだ。
こうして彼らは苦境が外部からやってくると信じているが、高貴な人間は、自己の内部で独自の苦境を創造するのである。それに対し低俗な人間、彼ら奴隷的なものは、苦悩への欲求から、常に他人の、そのまた他人の不幸を望んでさえいる。
高貴さの源泉は、「特異な情熱」である。他人が冷気を感じるもののうちに灼熱を感じ取ること、その価値を計る秤が未だ発明されていない価値を発見することである。
ただ、こうした例外的なものの尊重が行き過ぎた結果、この世に現れる高貴な心映えの最後の形式は、不当に軽んじられた規範の擁護者たることになるだろう。(§20 愚劣さの品格)
仮象は実在の反対ではない。むしろ仮象こそが作用するものである。仮象は我々が破滅しないために必要なものだ。仮象は人生と言う夢と、人生同士の交流を持続させるための最良の手段である。
人間が善を認識したと思い込むのは、悪の衝動が見えなくなった時である。
となると、悪の衝動に盲目になった時が、最も善の領域が広がった時だろう。
だから、民衆や子供には朗らかさ(ショーペンハウアーの幸福論)が生じ、眼を見開いた思想家には陰鬱さが生じる。
自分が自分自身について知っていることは意外に幸福には重要ではない。他人が自分について知っていることこそが恐ろしい。
良心の非難に耐えるのは容易で、世間の悪評を防ぐのこそが難しいからだ。
自分の手で試すことの出来ない事柄についての真理には興味が無い。
自分の手で試すことが出来ないならば、大胆にはなれない。