我々には太古から受け継いだ微弱な独自の性質が無数にある。
それらは長い年月で強化され、火山のように突然数世代後に噴火する。
先祖を振り返れば、ある才能や、ある道徳が全く欠けているかのように見えるだろう。それは、その時代に余りに微弱だったものが、現世代で噴火したからである。
逆に、今の時代に微弱なものが、早ければ子の世代で噴火することだろう。父親は息子を見てはじめて、自分自身を理解することになるだろう。
我々には太古から受け継いだ微弱な独自の性質が無数にある。
それらは長い年月で強化され、火山のように突然数世代後に噴火する。
先祖を振り返れば、ある才能や、ある道徳が全く欠けているかのように見えるだろう。それは、その時代に余りに微弱だったものが、現世代で噴火したからである。
逆に、今の時代に微弱なものが、早ければ子の世代で噴火することだろう。父親は息子を見てはじめて、自分自身を理解することになるだろう。
「周囲に目撃されることを前提としている性質」がある。そのような性質は、独自の発展様式を持つ。我々の目につく道徳的性質、例えば勤勉さや、野心や、才覚も、これ見よがしなもので、同様に発展する。
爬虫類の鱗に刻まれた模様は、人間なら顕微鏡で確認できるが、同じ爬虫類には気づかれずに発展してきたものである。これは「目に見えにくい性質」である。我々の勤勉さや野心や才覚にも人に見えない部分がある。それは別の発展様式を持つ。
これを「無意識の徳」と呼ぶならそれでよい。ただ、そうした鱗の細かい文様を見るための顕微鏡を発明し、覗かずにいて、満足してよいものだろうか?
今日、学問にとっての研究対象は広がるばかりである。実際、既存の学問の範囲は狭すぎる。以下のような範囲にも、学問や研究が必要ではないか。
これらどの分野にも勤勉な人々の何世代にもわたる協力が必要なのだ。
こうした研究が残らず完了したとき、人間の行為の全ては説明され尽くし、もはや人間は行為に際し目的を持てなくなるだろう。
そして代わりに、学問が人間に、行為の意味を教えてくれる時代がくるだろう。
そのとき、幾世紀をまたにかけ、あらゆるヒロイズムを満足させるような実験が行われるだろう。
沈思黙考、この古い賢者のスタイルは、人々に嘲笑されるようになり、威厳が失墜した。現代人はせっかちになり、歩きながら、片手間に、考えるようになった。たとえそれが真剣な問題を考えるときであっても。
だが、人間は、どんな騒音、天候でも働く思考機械を持ち合わせてはいない。
本来「やって来た」ときには、路上で突然何時間も佇んでいても不思議ではないのだ。
革命家や社会主義者、宗教家はよく「義務」という言葉を持ち出す。これらの義務は、「無条件に」従わなければならないものだという論法であることが常である。
彼らを動かすのは偉大なる情熱であるが、情熱が無根拠であることを彼らは知っているのだ。だから革命家や宗教家は無条件の義務という、定言命法の類を説いている哲学にすがらざるを得ない。
とくに、由緒ある家系の人などが社会への奉仕者となろうとする場合に、はたから見ても恥ずかしくない、御大層な大義名分が必要なのである。このお上品な奴隷精神が、定言命法にしがみつき、義務から無条件性を剥奪しようとする人々を攻撃するのだが、これは体面の問題とばかりも言えない。その裏には情熱があるからである。
喜ばしき知恵のテーマは、「逆説」である。この章も、世間で一般的に好ましく受け止められる、革命への情熱を、冷ややかに全否定している。
ニーチェが考える真の情熱は、「冷たい情熱」なのである。それは、世間一般から変人扱いされるほど、世間がどうでもよいとみなす事柄に熱中することである。それがニーチェの考える高貴さである。読者は§3 高貴と低俗でもこのような考えに触れ、衝撃を受けられたと思う。誰とでも共有できる定言命法やプロパガンダに頼るのは、群れることに過ぎず、高貴さとは程遠い。
したがって、ニーチェが「情熱」というとき、それは否定的・嘲笑的な意味あいである可能性を念頭に置かなければならない。世間一般が情熱と思っているものは単なる無謀であり、考えなしであり、克服すべき旧人類の欠陥なのである。それは、§38 爆発する人々でも語りなおされる。
人類を進歩させるのは悪の衝動である。進歩とは古いものを破壊することだからだ。
善人なる人々は、破壊せず、古代の思想の蓄積を掘り下げ、うまく知識を取り出して生きる。さながら精神の農夫である。しかしいつかはどんな土地も枯れ果てる。
悪人はそこに鋤を持って現れ、保守的なもの、境界石となるものをすべて取り除く。とりわけ信仰心を傷つけ、整然と秩序付けられた社会を破壊する。
悪人こそが新たな道徳や宗教をもたらし、眠り込んでいる情熱に火をつけるのだ。
高貴さとは、情熱を持つことである。この情熱は打算的な理性を眠らせてしまう。それで、ありきたりの人々にとっては、高貴な人がわざわざ損をして、くだらないものに熱中しているように思われる。
低俗な人々は、ひたすら自分の利益だけを見つめて、それを理性的だと思っている。高貴な人々は、非理性的である。高貴な人々は、危険も死もいとわない。高貴な人々を動かすのは頭脳ではなく、心臓であり、情熱である。高貴な人間は、理性を蔑んでさえいる。
低俗な人々にとって高貴な人々は風変わりで理解不能な存在である。高貴な人々も人間社会の愚劣さと支離滅裂さを糾弾する。これが高貴な人々の悪癖である。
ありきたりの人々は、生存の不確実さと曖昧さの中に身を置きながら、問を発することさえしない。それどころか、そうした問に無関心ですらある。だから、根拠もなくもろもろのことを信じて、それを頼りに生きているのだ。これは知的良心に欠けた、恥ずべき生き方である。才気爆発の男たちや洗練された極上の女たちでさえも、ありきたりの生き方に甘んじている。
これに対し、理性に憎悪を抱くことは、知的良心の疼きであり、好ましい。
個体として善人/悪人であることと、種族の保存に有益かどうかは別のことである。むしろ、本能的欲望に忠実な悪人こそ、種族の保存には素晴らしく有益である。確かに種族全体としては、不経済なエコノミーではあるが。
諸君、欲望に身を任せて見給え!底の底まで極めて見給え!個体としては賞賛されあるいは嘲笑されるだろうが、人類を促進し益することに変わりはない。自分自身を笑い飛ばせ。「種こそが全てであり、個体など無に等しい」 – こんな考えが人類の血肉と化したなら、そのときこそ笑いと知恵が手を結び、「悦ばしき知恵」だけが残るだろう。
現代の宗教や道徳は「生は生きるに値する」と吹聴している。本当は、種の保存は性欲のような単なる衝動に過ぎないというのに、そこに何らかの意味があるかのように吹聴し、その事実を忘れさせようとするのだ。それにより生への信仰を維持し、種の存続に貢献しているのだ。
「生は愛されるべきだ!」
「人間は自己と隣人を向上させるべきだ!」
「生きることには価値がある!」
こうした生における理性への信仰、「生存の目的の教師」に騙されるな。これらを笑い飛ばす潮時が来たのだ。
ニーチェの考える「高貴な人間(≒悪人)」は、「生存の目的」を笑い飛ばして欲望のままに生き、結果として人類全体を益する。それこそが自らの運命を愛し(§341 永劫回帰)、大いなる健康(§382 大いなる健康)を得た人間である。
『ツァラトゥストラはかく語りき』はニーチェの最も有名な著書と言われる。
喜ばしい知識の出版は1882年、ツァラトゥストラはかく語りきの出版は1885年であり、連続した著作である。ここでは、§1と同じ主張について『ツァラトゥストラはかく語りき』より引用する。
真理が生まれるためには、善人たちに悪と呼ばれている全てのものが集まってくる必要がある。
ー 「古い石板と新しい石板」(§7)
古い妄想がある。善と呼ばれ、悪と呼ばれる。
ー 「古い石板と新しい石板」(§9)