§55 この世に現れる最後の高貴な心映え

高貴さの源泉は、「特異な情熱」である。他人が冷気を感じるもののうちに灼熱を感じ取ること、その価値を計る秤が未だ発明されていない価値を発見することである。

ただ、こうした例外的なものの尊重が行き過ぎた結果、この世に現れる高貴な心映えの最後の形式は、不当に軽んじられた規範の擁護者たることになるだろう。(§20 愚劣さの品格)

§49 寛大さ

寛大さは形を変えたエゴイズムである。

寛大な人間は「振幅」が大きいだけで、突発的な感情の変化が、嫌悪から満足へと極端な変化をさせるのである。

我々は寛大な人間に感銘を受けるが、彼は極端に復讐に飢えた人間でありながら、満足も過度にしてしまう。その結果嘔吐を覚え、敵を許し、敬意を払い、敵を祝福しさえする。この、エゴイズムから発する強烈な衝動の一面が寛大さであるに過ぎない。

§48 苦境の知識

苦境には肉体の苦境と魂の苦境がある。

  • 肉体の苦境について
    現代の人間にはこの経験が不足しているが、人類の歴史の大半を占める恐怖の時代では、個人が肉体の苦境から自分のみを守らなければならなかった。彼らは自らを鍛え、他人に好んで苦痛を与える残忍さを身につけ、自分自身の安全さに悦楽を覚えた。
  • 魂の苦境について
    現代の人間は魂の深刻な苦痛を自らの経験によって知らないし、心の底では信じていないとさえ言える。

結局、どちらの観点からしても、現代では魂と体の苦境に苦しむ人間を見ることはあまり無いと言える。

この結果、苦境に対する潔癖性が生まれ、現代においてはほんの少しの苦痛でさえ憎悪されるようになった。苦痛の存在は考えるのさえもいけないことで、良心の問題として非難を浴びせかけるのだ。生存が快適になったことで、今度は蚊に刺された程度の苦痛を、人生の価値の否定に仕立て上げてしまう。厭世主義的な哲学への処方箋は、本物の苦境を味わうことしか無い。

§47 情熱の抑圧

情熱の「表現」を粗野で野蛮と見なして抑圧すると、遂には社会から情熱そのものが失われてしまう。ルイ14世の宮廷でそれは起こった。

我々の時代は今やその対照である。実生活でも芝居でも文学でも、情熱の粗野な爆発への喜びが見いだされる。我々とその子孫はやがてこうした情熱の「表現」だけでなく、本物の情熱を手に入れるだろう。

§46 科学に対する驚嘆

科学の成果がこれほどまでに安定していて、根を下ろしているのは驚嘆である。

これまで、安定は不自由なものだった。人間は習俗の倫理によって、どうしようもない必然性につなぎ止められて来た。そこから逃れようとして、童話や妖精譚を求めたのだ。人間は浮遊し、想像の世界で乱行にふけった。

科学によって、踏みしめた大地の幸福はこれとは異なる。難破に巻き込まれた者が陸地に上がって、もはや揺れていないことに驚嘆しているのだ。