自らの良心の非難よりも、社会の非難こそが最も恐ろしい。
尊敬する人の冷たい眼差し、引きつった口元。孤立は、我々の中の群れの本能を脅かす。
自らの良心の非難よりも、社会の非難こそが最も恐ろしい。
尊敬する人の冷たい眼差し、引きつった口元。孤立は、我々の中の群れの本能を脅かす。
寛大さは形を変えたエゴイズムである。
寛大な人間は「振幅」が大きいだけで、突発的な感情の変化が、嫌悪から満足へと極端な変化をさせるのである。
我々は寛大な人間に感銘を受けるが、彼は極端に復讐に飢えた人間でありながら、満足も過度にしてしまう。その結果嘔吐を覚え、敵を許し、敬意を払い、敵を祝福しさえする。この、エゴイズムから発する強烈な衝動の一面が寛大さであるに過ぎない。
苦境には肉体の苦境と魂の苦境がある。
結局、どちらの観点からしても、現代では魂と体の苦境に苦しむ人間を見ることはあまり無いと言える。
この結果、苦境に対する潔癖性が生まれ、現代においてはほんの少しの苦痛でさえ憎悪されるようになった。苦痛の存在は考えるのさえもいけないことで、良心の問題として非難を浴びせかけるのだ。生存が快適になったことで、今度は蚊に刺された程度の苦痛を、人生の価値の否定に仕立て上げてしまう。厭世主義的な哲学への処方箋は、本物の苦境を味わうことしか無い。
情熱の「表現」を粗野で野蛮と見なして抑圧すると、遂には社会から情熱そのものが失われてしまう。ルイ14世の宮廷でそれは起こった。
我々の時代は今やその対照である。実生活でも芝居でも文学でも、情熱の粗野な爆発への喜びが見いだされる。我々とその子孫はやがてこうした情熱の「表現」だけでなく、本物の情熱を手に入れるだろう。
科学の成果がこれほどまでに安定していて、根を下ろしているのは驚嘆である。
これまで、安定は不自由なものだった。人間は習俗の倫理によって、どうしようもない必然性につなぎ止められて来た。そこから逃れようとして、童話や妖精譚を求めたのだ。人間は浮遊し、想像の世界で乱行にふけった。
科学によって、踏みしめた大地の幸福はこれとは異なる。難破に巻き込まれた者が陸地に上がって、もはや揺れていないことに驚嘆しているのだ。
エピクロスの眼差しの先で、動物たちは戯れ、安らぎ、生存の海原も静まり返っている。その眼は海の肌合いを飽きもせずにいつまでも見つめている。
この慎ましい幸福の世界は、絶えず苦悩するものだけが作り出せるものである。
人間の内面の幸不幸を左右するのは、人間が何を自分の原動力だと思っているかという思い込みである。人間は実際の動機に対しては盲目で、二の次である。
法律はその民族の本質ではなく、その民族にとっての異端が何であるかを語る。
イスラムのワッハーブ派では殺人さえ死罪にならないのに、他の神を崇めれば死罪になるし、ローマでは女性が飲酒することが死罪とされた。ローマで恐れられたのは、女性の姦淫だけではなく、飲酒がもたらすディオニュソス的な状態であった。