§2 ギリシャにおけるディオニュソス的なもの

我々は、アポロ的なものとディオニュソス的なものとを、芸術家という人間の個体ではなく、自然そのものからほとばしり出る芸術的な衝動として考察した。芸術家は、この衝動を模倣しているに過ぎない。

ギリシア人は、アポロ的なものの模倣に優れていた。

まず、ギリシア人の目は信じがたいほど明確で確実な彫塑的能力をそなえ、色彩に対し素直な感覚をもっていた。それと同等の一連の場面がギリシア人の夢の中にもあったはずである。これがホメロス的ギリシア世界である。

しかし、ギリシア人によるディオニュソス的なものの模倣は、野蛮人のそれとははっきり異なっていた。

野蛮人においては、並みはずれた性的放縦が祝祭の中心であった。
ギリシア人はその熱病的な興奮に対して、威容を誇って立ちはだかっていたアポロの姿によって、しばらくの間は防御していたが、とうとうその力に屈し、和議を講じたのである。

しかし、この和議の結果、ギリシア人におけるディオニュソス的なものは変化した。
人間を虎や猿に退化させるバビロンのサカイエンの祭儀とくらべ、ギリシア祭典は光明化の祝日であった。
わずかにギリシア祭典に引き継がれたのは、ディオニュソス的熱狂者の情念の中の不思議な混合と二重性である。それは、苦痛が快感を呼び起こし、歓喜が苦痛を溢れさせる現象だ。

それは、全人間が一種族として、いや、自然の精霊として融合した姿である。
自然の本質は口、顔面、言葉、四肢を使った全身的象徴法によって象徴的に表現された。

このような気分をもつ熱狂者群の歌や踊りは、ホメロス的ギリシア世界にとっては、前代未聞のもので、恐怖と戦慄とをよびおこした。
自分たちも一皮むけば、人間でなくなるのではないのかという恐怖を。

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