トランジション(ブリッジズ)【125冊目】

あと半年で35歳になる

人は10年に一度生きる目的を変えるらしい。

15歳の時には素粒子物理学者になりたかった。
25歳の時には仕事が出来る大人に憧れた。
35歳の今思うのは人に思考を汚されたくないということだ。

社会には、気付かないうちに入り込んでくる洗脳が存在する。それを学んだ。大人の方々からすればようやく気づいたかとご笑覧されることと思うが、今年それに気づいたように思う。努力主義や能力主義も社会による洗脳の一種に過ぎない。

例えば15歳の時、努力は正しいことだと考えていた。
しかしそれはなぜ正しいのだろうか。
今なら知っている。世の中は天分により努力せず成功した人間にあふれており、客観的な成功と主観的な幸福さえも関係ないことを。

例えば25歳の時、能力の高みを目指すという世界観に疑問を持っていなかった。
しかしいつそれを正しいと刷り込まれたのだろうか。
今なら知っている。人間の能力は一生上がり続けることはないし、能力が下がりだしたからと言って人間の価値が減ずるわけではないことを。
今ならわかる。能力の衰えを見せ始めた自らの老齢期に、ギプスを嵌められ筋力トレーニングを強制する思想があったとしたらそれがどんなに滑稽で醜悪かを。

ある人が、35歳になると能力は動機付けの原動力として働かなくなると言った。それまでは人間の自己への関心はhowに集約される。例えば”マズローの自己実現の理論”は結局どのように=how生きれば自己実現できるかの理論だ。35歳以降は自分とは何か=自己の限界は何か=自己はなぜそれを好きなのかというwhyへの転換が起こる。

このhowからwhyへの転換が、ミドルエイジクライシスの原因とされる。
今まではhowに注力して伸ばしてきた能力は、whyを問う時には役に立たない可能性もある。その時に、人は絶望するという。

この”さばきの”時に、好きなことだけをしてきた人間はクライシスに陥らないとされる。というのは、howを伸ばしてきた理由と、whyのギャップが小さいからだ。
しかしながら、キャリアアップ幻想に囚われ、マズローの自己実現の理論などを信じこんでしまい(私は人生で一度も信じたことがないのだが。マズローは西成のホームレスに謝るべきだろう)、高みに向かってひたすら能力を上げることに注力していると、能力や年収が落ちてきた時に、whyへの問いに囚われるという。

こんなに年収をあげてきたのに、なぜ感謝されないのか。
こんなに年収をあげてきたのに、なぜ貯金がないのか。
こんなに貯金があるのに、何に使えばいいのか。
こんなに能力が高いのに、なぜ尊敬されないのか。
こんなに能力が高いのに、なぜ何も成し遂げられなかったのか。
能力や貯金に意味がないとしたら、自分は35年をすっかり無駄にしてしまったのではないのか。

そのように気づいてしまったとき、人はクライシスに陥り、多大な精神的ダメージを被るらしい。

人の能力は35歳まではおそらく上がり続ける。プログラマ35歳定年説などはここからきたのではないか。しかしそれが若者を愚かにしている。若者は、能力の無意義に気づくまで、クライシスが自分に降りかかることにも気づくことができない。

クライシスを避けるには、howとwhyのギャップをひたすら小さくすることしかない。ここで冒頭に戻るが、社会には洗脳してくる価値観が多くある。努力しろ。モテろ。羨望を浴びろ。蓄財しろ。利他行為をしろ。信仰を持て。政治に関与しろ。公共の利益に貢献しろ。

しかしもし自分を捨て、その洗脳の快楽に身を委ねてしまえば、35歳を迎えた時に、クライシスがやってきて、人は絶望するという。

人生には、「本当の終わり」がいくつもある。終わりとは、取り返しがつかない、二度と元に戻れないことである。本当の終わりを経験するたびにhowを捨てwhyへ向かうことが、30代以降70代に至るまでの人間の成熟である、という心理学の本だ。

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